修練場所と時間

 

日時 毎週土曜 13時~17時

場所 入船専用道場(入船さつき苑自治集会所)浦安市入船4-46-1

 

日時 毎週水曜 19時30分~21時

場所 浦安市中央武道館他(※) 浦安市猫実1-18-15

 

※中央武道館は、大会自主修練等に伴う個人使用となります。

※修練時間と場所は変更される場合があります。

 

 

開祖の閂

 

昭和初期より50年後半まで、東京市への編入策として浦安市内を都バスが運行しており、市民生活は都内と変わらないものであった。

 

  「江戸文化、江戸歴史、浦安文化、浦安歴史と、浦安弁、江戸弁」

 

  ては、江戸圏には浦安、葛西、深川、行徳地区が徳川家康氏の領地(行徳の御陵場は徳川将軍家の戦場訓練場として、行徳には徳川将軍家の護国寺もある)から始まり徳川将軍家に代々命じられて、江戸前(江戸城の三里周辺を言います)の特に筆頭に塩を作らせ、佃煮、海苔、江戸前の鮮魚を献上する為の「三河式漁法(徳川家康氏に依って持ち込まれて来ました)」を採用させ,江戸湾に面した日本橋の魚河岸の台所(築地に移転されても浦安の住民が多い理由です)江戸幕府と一体となり支えていた時代があって現在に至ります。

  ここが「千葉県に含めない理由と他の市区町村とは根本的に異なる歴史、文化及び位置」があります。利根川(隅田川を利根川、荒川、行徳川と称していたのです)の氾濫を回避させる為の旧江戸川は、1603年代の開府以降に掘削された人工河川(地質的、地理的に明白です)で、葛西(東葛西地区・元長島町)よりの妙見島(自然島ではなく、元々は陸地です)から浦安の境川(地理的に検証や約1400年頃の資料などを散見すれば明白)に注ぎ込んでいたのが本流(支流でなく)で江戸湾に注いでいて、元々は浦安(堀江地区)と葛西の堀江(東葛西地区・元堀江町)は地続きで旧江戸川を掘削した際に二つ(飛び地や逃避も間違い)に分けられました。

  

  一説では「浦安市堀江の住民が集団移動した」と極めて少数の人が言うが、1.元々、深川、葛西、浦安、行徳は「徳川将軍家の直轄地で全体を一括した、葛飾郡(東西南北と江戸時代に分けられている時代背景)」があること。2.海運及び繁華街が、行徳、浦安市堀江であった。浦安などに来る事は在っても葛西に移動する理由がないこと(浦安市堀江の商人である。利根川の水は涸れても平左の身代(葛西、浦安の殆どを入手していた富豪です。昭和初期頃に荒川放水路が掘削され、困っている住民の為に木造橋を架けたと言われている人物が浦安市堀江の商人です)は涸れぬ、と言われる程に裕福地であった。貧困などで移動する理由がない。当時は移動の自由もない)

  

 3.葛西原住民の15代以上の戸籍、家系図などを調査すると地続きであった内容と移動したのではない根拠が垣間見られること(南葛飾郡堀江町葛西村○○番地と成っていて、昭和40年代頃の記載内容で、当時は江戸川区ではない)。4.江戸は人口増加に依って「居住する場所がない為に、中心から外へ広がった」移民の文化であること。地名(堀江、宇喜田など)、名称(大塚、宇田川なども山手線内にもある)も神社(清龍神社、庚申など)の名称も言語など(山の手言葉や川崎以降とも違う)も全く同じなのです。地域に依って江戸っ子の出入りがあって言語が地区ごとに多少違う箇所もありますが、粋で歯切れの良い江戸っ子のべいべい言葉は有名でした。

   この様に江戸の河川は殆ど人工河川(隅田川は支流から掘削、荒川放水路、旧江戸川、江戸川、中川)と埋立地(江戸城の前と周辺は全て埋立地で常に液状化が発生していたのです。つまり、埋め立てが遅いか、速いかの違いのみの現象です
。舞浜地区も同様です)と成り立っております。ここで、発展したとか、都市化とは、その時代の「人と文化の集まりに依って変化」して行くもので、嘗ては江東区、墨田区などが発展、後退して行ったのに対して、浦安地区は人と文化が集積して素晴らしい地域へと変遷している。これも歴史の変遷等のサイクルです。

  因みに、総武線は「葛西、浦安地区」に敷設予定であったが、海運の時代が変わったと考えていた住民は殆どであったと聞き及んでいる背景を考慮すると「住民の反対運動ではなく」て、時の趨勢(軍隊等の圧力や武器や兵隊等を大量に搬送出来る唯一の手段で、総武線の各駅には、元々の軍事基地が現存していて、その必要性があった経緯です)に依って変更されてしまいました。実際に、総武線の敷設の仕方が不自然な「への字」に成っている事が気がつくと思います。しかし、時代と共に「鉄道地域が発展し、後退」して背景を垣間見ると、時代、歴史や文化も移動すると感じます。

 

  江戸の歴史(20年)を研究して「浦安弁」の原点は「江戸弁(ポルトガル語等も含め、江戸を占拠した三河、薩摩などの言語と遊女の言語等々が混在している文化)」から端を発している事を常々感じ江戸の変遷と浦安の位置(新小岩等と同じ位置であって本来は東京都江戸川区です)、江戸からの人々の移動等々からも調査して解って来たものです。浦安は都心の日本橋まで約11kmで僅か12分です。因みに世田谷区や大田区等は約15km以上です(幕末、田舎だった地域を外国人を江戸城から遠ざける方策として行われ、その山々を取り崩して外国人自らが開墾した横浜などは埋立地です)要は「鉄道の敷設が早いか、遅いか」に依って人々の見方などが変わるのです。

 

 当初の江戸は三河弁等々(江戸を占拠した面々)の混在した言語が「江戸弁(当時も江戸のベイベイ言葉は有名)」で、江戸の人口が膨張して江戸の領地(埋立地を含み)が膨らみ続けたるに従い、葛西(ジャンは引っ越した人の流行語)や浦安も徳川将軍家の領地(近くに行徳の徳川将軍家の御猟場が現存する。現在は宮内庁の所有です)と成れば尚更、江戸の中心から浦安へ人々も文化等(文化等の流れは江戸中心から江戸底辺へ拡大します)も移転し、従来の在住者との言語も多少ブレンドされて「浦安弁は、当該原語が江戸弁に最も近い(江戸っ子の流出から推察すれば明白です)」が形成されたものと考証されます。

 

 従って、徳川将軍家の領地である浦安以外の千葉県(領主がいた市川、船橋等の地区)の「原語とは異なる文化(元々、江戸以前に独特の文化、歴史及び領主が存在していて閉鎖的(国として独立)な地域性と農作業等の文化)」であった事が証明されている。下総国(両国からの東側)の原語をも多少原語のブレンドが加わって夫々の文化(原語等の発生)が形成されつつ、歴史の流れに沿って「現在も浦安は殆どが標準語(元々、標準語は全国の各地方から来た官僚など、他国の人々、学生等が各地方語が通じない為に創案されたのが共通語と称されます。江戸弁とは異なりこれが東京語と称されたのです。仮に、都心の中心で何代か生誕しても何れも標準語に過ぎません。これを田舎の人は江戸っ子の言葉と勘違いしている)」としての文化が形成されております。これらも「江戸中心からの流れ」と言えます。詳細は歴史観史等(知人の目黒の東大歴史研究室の歴史家の著書である江戸の言語等もあります)にてご覧下さい。


 また、特に塩を取り上げると耕していた塩田(深川、葛西、浦安、行徳地区)ひとつにしても、いきなり開墾して塩ができるというわけにはまいりません。徳川家康氏の持ち込んだ三河方式を改善しての連続に依って「江戸の文化人」らしい歴史を形成したのです(江戸の文化資料を見る限り、昭和初期の深川区内の漁民の格好も葛西や浦安と何ら変わりません)。また、山本周五郎氏は地方の方なので「べか船」の意味さえ知らずの著書となったが、元々「べか船は江戸の伝馬船(浦安独自の船ではないのです。貝剥きの技術も同様です)」を言います。

 

 この様に「東京都の河川が殆ど人工河川(隅田川は支流の拡張、旧江戸川の掘削に依る人工河川)」である以上、政治などの思惑とは別に「国土交通省が「正式に定めた江戸川に都県境」を定める(浦安市民の殆どは日本橋などの都心に勤務、通学や経営などを行っております。千葉方面へ行く人は殆ど希です。流れとしては当然であり、東京都23区内だけでは経済活動等は絶対に成り立たないからです。東京都特別区は浦安などが一体性と成って成り立つ強い結びつきがあって経済活動圏等がGDP世界一を成し得る(当時は20万人を想定した特別区は既に破綻していて再度の再編と周辺地域との広域合併が必要です)。人も歴史も文化も当然)」事が本来の姿であり、時代の要請が大方の市民感情と民意に合致するからです。